由緒

4町の歴史

江戸時代から受け継がれ、関東大震災まで用いられた旧町名を手がかりに、各町の歴史をご紹介します。

2.福井町二丁目の歴史

福井町二丁目は、江戸時代中期の享保15年(1730)に成立し、昭和9年(1934)まで神田川北岸に存在した町です。
成立当初から明治44年(1911)までは「浅草福井町二丁目」と称されていました。
町域は現在の浅草橋一丁目・二丁目の一部にあたり、関東大震災後の復興事業による区画整理で地割が大きく変更され、現在の形になりました。

中世には水田や湿地が広がる鳥越村の一部でしたが、天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入ると、江戸城下建設とともにこの地も大きく姿を変えます。
神田川の開削により江戸城北東の防備が強化され、その沿線には大名屋敷が配置されました。
越前福井藩松平氏も元和4年(1618)に広大な下屋敷を拝領し、この地は江戸防衛の一角を担う重要な場所となります。
後に屋敷地は収公され、享保11年(1726)から町屋が開かれ、享保15年(1730)に福井町と命名されました。

浅草福井町二丁目は、町全体が一ブロックのみの小規模な片側町で、袋町という珍しい形態をとっていました。
一丁目を中央に、北に二丁目、西に三丁目を配する配置も、江戸・東京でも他に例のない特異なものです。
文政8年(1825)には家数55軒を数え、札差の近江屋佐平治や、雛人形の久月創業家の吉野屋久兵衛などが暮らしていました。
とくに近江屋佐平治は、金融商人として名を成す一方、茶番の名人としても知られ、江戸の粋を体現した人物でした。

明治維新後、福井町二丁目は東京府、のち浅草区に属し、町名から「浅草」が外れます。
明治期の史料を見ると、米商、質商、宿屋、学校など多様な業種が並び、地主は少数で住民の多くが借家住まいでした。
日章私黌や私塾・深海堂といった教育機関もあり、商いと学びが共存する町であったことがわかります。
また、軍談師や翻訳家、俳人など文化人も暮らし、町は江戸以来の風情と活気を保っていました。

しかし、大正12年(1923)の関東大震災で町は壊滅的な被害を受け、復興計画により街路と区画は一新されます。
昭和9年(1934)には町名が消滅し浅草橋二丁目と三丁目に編入。さらに昭和20年(1945)の東京大空襲で旧町域は再び焼き尽くされました。
戦後の区再編と住居表示を経て、現在は台東区浅草橋一丁目と二丁目になりました。 福井町二丁目の名は地図から姿を消しましたが、その歴史は、江戸から近代、そして戦災と復興をくぐり抜けた下町の記憶として、現在の浅草橋の街並みに静かに息づいています。