3.福井町三丁目の歴史
福井町三丁目は、享保11年(1726)に町屋が開かれ、享保15年(1730)に町名が定められて以来、昭和39年(1964)まで存続した町名です。
場所は現在の台東区浅草橋一丁目中央部にあたり、江戸時代前期には越前福井藩松平氏の広大な下屋敷が置かれていました。
この地は、江戸城北東の防備を固める要衝として幕府が重視した地域であり、津藩藤堂氏や庄内藩酒井氏らの屋敷とともに、防衛線の一角を担っていました。
享保年間に下屋敷が収公されると町地として開発され、浅草福井町一〜三丁目が誕生します。
なかでも三丁目は袋町という独特の形態を持ち、一丁目を中心に二丁目と三丁目が離れて配置される、江戸でも珍しい町割でした。
文政期には187軒を数え、表通りには米穀問屋や足袋・雛人形の商家が並び、裏手には長屋が広がるなど、商業と庶民生活が共存する町として栄えました。
明治に入ると東京府、のち浅草区に属し、人口も増加します。町には私塾や商人が集い、明治34年(1901)には町の名を冠した福井小学校の建設が決議され、翌年に開校しました。
町域の三分の一以上を占める福井小学校は児童数を急速に増やし、町を象徴する存在となります。
大正12年(1923)の関東大震災では町は壊滅的な被害を受け、小学校も焼失しましたが、復興計画のもとで鉄筋コンクリート造の近代的な「復興小学校」として再建されました。
同時に帝都復興事業により街区は再編され、昭和7年(1932)には総武線浅草橋駅が開業。福井町三丁目は交通の要衝へと姿を変えていきます。
しかし、昭和20年(1945)の東京大空襲により町は再び焦土と化し、福井小学校も大きな被害を受けました。
戦後、校舎は福井中学校として引き継がれ、地域の学びの場として長く親しまれますが、平成3年(1991)に廃校。さらに平成21年(2009)には校舎も解体されました。
昭和39年(1964)の住居表示実施により、福井町三丁目の名は浅草橋一丁目へと姿を変えました。
町名は消えましたが、毎年開催されるマロニエ祭りなどを通じ、この地が育んできた記憶と賑わいは、今も静かに受け継がれています。