由緒

4町の歴史

江戸時代から受け継がれ、関東大震災まで用いられた旧町名を手がかりに、各町の歴史をご紹介します。

4.左衛門町の歴史

いまは台東区浅草橋1丁目の西部として地図に載るこの一帯も、かつては「左衛門町」と呼ばれ、江戸時代から昭和まで、さまざまな時代の息づかいを残してきました。
中世、この地は鳥越村の一部で、水田や湿地が入り交じる場所でした。
天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入り城づくりを始めると、江戸の町も一気に姿を変えます。出羽庄内藩・酒井氏は、この浅草向柳原に広大な下屋敷を拝領しました。その広さ、なんと6,729坪余。拝領の時期は諸説ありますが、慶長年間(1596〜1615)か元和8年(1622)とされています。明治維新まで、この屋敷がこの地を見守っていました。
酒井家は徳川四天王の一人・酒井忠次の子孫で、代々「左衛門尉」を名乗った名門。藩名は鶴岡藩、領地は今の山形県庄内地方です。

明治維新で大名の江戸屋敷は新政府に引き渡され、この下屋敷も収公されました。
明治4年(1871)、旧幕臣・中山信安が払い下げを受け、この地に住み始めます。
信安は茨城県の知事にあたる「権令」を務めた人物で、引退後はここで牧場を営みました。
中山家は終戦まで町の地主となります。
明治5年(1872)には、旧庄内藩下屋敷地にも町制度が適用され「浅草新平右衛門町」が誕生。当時の世帯数はわずか5戸、人口25人。牧場が広がる静かな土地でした。やがて町割りや道路が整えられ、徐々に町らしい姿になります。

この地の名物イベントといえば、幕末の剣豪・榊原鍵吉が明治6年(1873)に左衛門河岸で開いた「撃剣会」。剣術を見世物にし、困窮する武芸者を助けるという催しでした。
多くの人が集まり、町はにぎわいに包まれます。
明治8年(1875)には、神田川に「左衛門橋」が架けられます。はじめは民間人がかけた橋で、当初は木造。明治34年(1901)に鉄橋となりますが、関東大震災で損壊。現在の鋼橋は昭和5年(1930)に完成したものです。
橋の上から川を眺めれば、当時も今も変わらぬ川風を感じられます。
明治23年(1890)に町名は「浅草左衛門町」に。名前の由来は酒井家の官職「左衛門尉」や、左衛門河岸・左衛門橋にちなみます。 しかし大正12年(1923)の関東大震災で町は壊滅。浅草区全体で約93%が焼失しました。
帝都復興区画整理事業で道路や街区が再編され、昭和7年(1932)には総武線が開通し、町内に浅草橋駅が設けられます。

昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、左衛門町は再びほぼ全域が焼失。戦後の復興は早く、昭和25年には町並みが再建されます。
昭和39年(1964)、住居表示制度で左衛門町は浅草橋1丁目に編入され、町名は地図から姿を消しました。